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梅干と紀州特産物の長生き屋商店オンラインショッピング。
長生き屋おすすめ通販では、ご家庭用からギフト商品まで幅広くお使いいただける梅干と紀州特産
物をを多数ご用意いたしております。日常の食卓にそえる日本の心、そしてお世話になったあの方へ
の贈り物として… 長生き屋の梅干をどうぞ。 |
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| 人に生かされて梅干人生20年!我が「長生き屋」 2008年8月8日 |
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1988年8月8日に紀州の梅 長生き屋商店を創業。
そして、平成8年8月8日で8周年を迎えた。
そしてこの日を軌に、有限会社長生き屋商店を設立。
今年で2008年8月8日で20年になります。
和歌山で生まれ、ちょっとだけ”わんぱく”な…
元気な学生時代を送ったように思います。
1970年に大阪で、万国博覧会が開催された。
私はとにかく、ロボット館と白いトラが見たかった。
酒の蓋・カニ・フナ虫やら、何やらいろいろ集めては買ってもらい、 片道切符のお金と、万博の前売り券だけ持って
、大阪へ出ました。
帰りの切符代は持っていなかったんやなぁ!
1件のお好み焼き屋さんを訪ね、おっちゃんに、「働かして」と頼んだ。
おっちゃんはちょっとビックリ(+_+)していたよういに見えましたが、
「ボク待っときや」言うてお好みを焼いてくれた。ええおっちゃんやった。
それからそこで何時間か寝たんや思います。目の前に親父とおまわりさんが立っていました。何が起きたんか、わからへんかった。
私にとっては、9歳にして初めての就職活動と、補導であった。
このまんまの性格を持って、高校を卒業するまで、思うようにやらしてもらいました。
お寺で生活をし、朝お経をとなえてから一日が始まるという 時期もありまし。この時期が人生の勉強をさせてもらう大きな時期やった んやと思います。
偉いもんで、人の話は聞かんとあかんねんなぁ。と、知 らず知らずの内に自覚出来ていたように思います。
とにかく人間関係については、ほんまに学ばしてもらいました。
この頃からいつも花の東京、花の東京て思ってたんです。
東京が大きな、大きな憧れやったんです。
そんで、高校を卒業して、東京の仏教系の大学に進学しましたんや。
普通に考えたら、僧侶の道があったんやと思う。が…大学の4年間、バーテンダーと、露天の商売を手伝う夢のような生活と厳しい人間関係を、時には痛い思いをしながら学ばしてもらう時期やった。
いい仲間もいっぱい出来た。ええ経験もいっぱいさしてもらった。
そんな学生時代も終え、田舎へ帰りました。
田舎へ帰った一番の理由は、ちっちゃい時から続けていた武道の
道場を持ちたいという想いがありました。
その頃は何よりもそれが1番やったから、就職は二の次やったんや。
梅干の加工会社に就職し、
24歳で念願の道場をもてた。
と言うか、師匠から道場をあずてもらった。そやけどほんまに嬉かった。
昼間は梅干屋で働いて、夜は週4日、道場で指導をする生活が続いた。 毎日が自分なりに満足出来ていたと思う。ただ、私は自分が作る梅干が大好きで、私が作る梅干を美味しいと言ってくれる事が凄く嬉しくて、梅干の深さ言うんか、そんなんが私の中でいっぱいになってきた。
そして梅干作りが喜びに変わり、生きがいを感じるようになりました。
道場を持ちたくて帰ってきたんやけど、道場よりも梅干の方が私の中で大きくなってきたんやなぁ。その想いは、今までに感じた事のないものでした。自分の色を出した梅干作りをしたいのう、もっと美味い梅干作りたいのう。想いはいっぱい広がってきました。
私には、「たかが梅干やけど、されど梅干。大きな・大きな大事な梅干」になっていました。大分悩んだんやけど、道場には私よりはるかに上を
行く弟弟子がいたので、師匠に相談して道場をお返しした。そして会社の親方にも相談して、時期を見て、独立させてもらった。みんなにいろんな事を教わり、自分の道をはっきり決断出来た時期でした。
そして車2台だけ置ける駐車場を借りた。
たまたま工場を立て直す同業者から瓦と垂木をもらい屋根を作り、小さな工場が完成した。そして、家族の手を仮て長生き屋をスタートさせる事が出来た。一人で決めて始めた仕事ではあったが、協力してくれる家族がいるという事がありがたくて仕方なかった。
私は基本的に甘〜い人間や。頭の中ではスタートダッシュをする予定やったんやで。ところがその考えは甘い、甘い考えやったってすぐに痛感させられた。まったく仕事がないんです。それどころか、梅干の作り方は知ってるけど、見積もりの出し方がわからへんかった。
幸か不幸かたまに営業出来る機会もあったんやけど、、見積もりを出させてもらうまで行かんかったんや。そやからその時点では自分の未熟さに気付いていなかった。そして昆布製造販売の会社と仕事の契約が取れるときがやっと来た。そのとき私は、梅干の原価を提示して、いくらで卸さしてもらったらええのかを卸先の社長に聞いた。
商売の駆け引きと言うものをおよそ持ち合わせていなかったんやなぁ
そんな私に、その社長は凄く親切に見積もりの出し方を教えてくれた
その後も仕事は殆どなく、貯えも殆ど無くなりました。そんでも必ず、沢山の人に梅干を食べてもらえる日が来るんや。という思いが強かった。そやから、辛い苦しいという思いはあまり感じんかったです。
ただ、生きるためには梅干の仕事ばかりしてしておれず、ちょっと回り道もした。
まず、11月の末頃から土を掘り、まだ地面に出てきてない筑紫を掘り出して、温かいところへ植えなおし早く大きくさせて、早く出荷するという仕事をしましたんや。少しは生活の足しになったんやで。次に葬儀屋さんから小さなマイクロバスを本間に安い値段でわけてもらって、少し改造して、木のおがくずを入れてカブト虫の養殖を始めました。
この仕事はだいぶお金になった。それと、子供達が喜んでいたことがなぜか嬉しかった。そやけど、そんだけでは生活ができへん。
実家は梅農家やけど、私は次男や。畑の仕事も手伝ってたけど、
これは梅を安く仕入れるため、仕入れるほど仕事のない私は別の方法で収入を得んとあかん。この時期いろんな人から、生活の仕方を教えてもらった。カーテン・ジュータン・クロス貼り。よく梅干の作り方を忘れへんかったなぁと思う。
今でも時々インテリア榎本へ、カーテンのオーダーが入っんねでぇ。
そんでも世の中はありがたいもんや。
個人のお客さんが私の梅干を直接送ってほしいと言う以来がちょっとずつ増えてきました。もともと通信販売で梅干を売ることが一番やと考えていたから、これで商売がなりたてば最高や。そやけど、それは甘い考えで、商売を成り立たせるには、程遠いものやった。そこで、県外への営業活動を増やした県外へ出るたびにちょっと梅干のサンプルを多い目に持って行った。そんで、帰りのいつもの某駅の、いつもの構内で隠れるように、それでも堂々と梅干を売ってから帰るっちゅう生活をしていました。
この時も人はありがたいもので、一度も怒られへんかった。それどころかホームでうどんを売っているおっちゃんに時々、ごちそうになった。寒い夜なんかは、知らず知らずのうちに、涙がポロポロ出てきて止まらへん日もあった。ほんまに美味いうどんやったな〜。ありがとう。
感謝、感謝です。
そうこうしていたある日、東京の百貨店の「有名駅弁と美味いもの市」という催事に出てみないかと言う誘いを受けました。嬉しかったなー
すぐに返事しました。生まれて初めての百貨店デビュウーや。
これでやっとご飯が食べられると思い込んでいました。私にとって東京の百貨店はそれほど偉大で、憧れの場所やった。
催事の前日の店作り。
何にも解らへん私には、催事屋さんも、電気屋さんも、警備の人もみんな百貨店の人に見えた。絶対に失礼な事は出来ない。、段取りの解らへん私はみんなが店作りを終えるまで待って最後に店作りをしたらええんや。と決め、全ての人が作業を終えるまで待つことにしました。
そうこうそている内に、何人ものグループで移動している人達のちゅっと
しっかり者のおばちゃんに手提げのかばんを見なかったかと
聞かれました。グループの一人がかばんを盗まれたみたいやった。
気が付くと、完全に泥棒やと疑われていました。
でも疑いはその日の内にはれ、罪悪感いっぱいのおばちゃんはその日から1週間、精一杯私のめんどうを見てくれました。おかげで百貨店側の予算をはるかに越える売り上げを残す事が出来た。その事が今の百貨店との取引の最初の一歩やったんや。
凱旋帰国のような勢いで和歌山へ戻った私は、これからの人生は安泰やと有頂天やった。そやけどその思いはすぐに甘いもんやと気付いた。と言うよりこれからどないして百貨店と付き合いをしていったらええんか、東京でどないな段取りで商売をして行ったらえんか、何一つ方法がわかへんかった。次の打ち合わせやら、これから先の商談をして行かんと前へ進めないという事をしらんかった。今から思うとその後よくこの百貨店と取引が続けさせてもらえたと思います。ただ私は大変な幸せ男や。商売の「いろは」を教わり出したこの頃に、「悔しくて・悲しくて」というような思いをした記憶があまりない。周りの人がこれでもかと言っても言い過ぎやないほど、心の優しい人が多かったように思います。ありがたい事やといつも思っていました。ただはっきり言って商売はまだまだ、なりたっていなかった。周りからいっぱい心配してもらいました。自分のふがいなさに涙したという記憶も無いて言うたら嘘になります。それでも私には大きな夢がありました。(この夢は今もまだまだ途中です)。この頃やと思います.多くの人から、物の流れ、商品の売り込み、仕事を通しての人間関係などを、山ほど教えてもらいました。特に他人との競争についてはほんまに厳しかった。
そんなこんなで何とか商売もちょっとづつやけど、、形になってきた。ありがたい事で、この百貨店での梅干ギフト部門では、売り上げ1番を10数年間ずっと続けさせてもろてます。それこそこの百貨店が、私の東京での商売の原点やし、スタート地点です。ただ私が一番やりたい販売はやっぱり小売です。取引先が増えて来ても、訪問販売や婦人会なんかで、即売会をやってもらいその場所で直接販売する事、お客様との対話や意見を聞きながら梅干を販売することに、何とも言えない喜びを感じていました。
この頃には、自分の行きたい道、やりたい販売の方向性について考えるようになった。
相変わらず会社に余裕があるわけやない。
それで、地元の農協の梅干部門の下請けをさせてもらいました。大手問屋様のブランド商品も作らせてもらいました。ありがたい事です。感謝・感謝です。それでもやっぱり消費者に直接販売したい、お客さんが最終消費者で、一人・一人のお客様と深い絆を作りたい・不動の信頼関係を作って行きたいと思うようになり、それが私の目標やし、夢やし、大きな使命やと今は強く思っています。
おかげ様でよくやってくれる従業員もいてくれます。
家族のささえもあります。
自家農園には、梅干とみかんがあります。
従兄弟がしらす漁の網本で、とれたての釜揚げしらすをいつも用意してくれています。
我が長生き屋はなかなかなものだと、私は自負しております。
後は当店がどの会社よりもお客さんに信頼される店にならなければとこの事だけは誰よりも、強くと強く思っている。
ある日、大阪市内を車で走っていました。たまたま目に飛び込んで来たのは、
カレーやさんだった。ちょっと驚いた。店と店の間には隙間が無いほどの
2件並びで営業していました。
1件は黄色い看板の有名なチェーン店・もう1件は○○カりーという
高級カレー店のやった。外から見ただけでは、有名チェーン店は活気にあふれているように見えた。
もう1件は少し静かに見えました。
静かなカレー店に入ってみました。ビーフカレーが売りのようやった。席の数は少ないけど、全部うまっていた。
席の少ないのは、全てのお客さんに目が行き届くからやと、だからお客さんに満足してもえるのやというのが理由だという事を聞いた。
ビーフカレーを注文した。本当に美味いビーフカレーやった。
又、 私はいろんなところでよく、となりの有名チェーン店へ入ります。
ここへ入ると損した気分にはならへん。
お客さんにとって、辛さのランクがある事と、トッピング(選べる具)は本間に都合がええ。そして確かに美味しい。
チェーン店という大きな組織にあぐらをかいてへん。一人一人が目の前のお客様に必死に接しているように見える。気持ちのええ店や。
どちらの店も作り手の誇りとお客さんとの信頼関係が出来ているんやなーと思う。勉強させてもらった。
私も梅干の道でお客様との信頼関係を作っていきたい。長生き屋に任せたら間違いない。
と言ってもらえるようになりたい。そのために私はどこへでも出向いて、本物の梅干を製造する、作り手の想いを伝えたいと思っています。毎年東京で梅干の漬け方の講習会を行っているのも、そのいっかんです。
私は紀州産南高梅を日本のブランド商品やと思っています。
一度買ってもらったらそれでええ、ではなく、もう一度買ってもらえる梅干でなければあかんと思っています。
そして、
長生き屋以外では買えない。と言っていただけるお客様を増やしていくことが、私の行く道やと思っています。
お蔭様でそう言ってもらえるお客様も増えて来ました。そう言って下さるお客様のご期待に添えるように、
又、もっと、もっと多くの方に、お客様になってもらえるようになるためにも、お客様との対話の中での販売が一番だという強い想いで、
インターネット販売を始めました。
今までおおくの人に支えられて生きてこれました。毎日が感謝の日々です。
本当に、多くの人に生かされて来た我が梅干人生20年や。
これから先の方が、まだまだ長い。もっともっと
多くの人に生かされて、生きていくんやと思っている。
だから私も、私が生きている事で、一人でも多くの人の笑顔を守れる人間になりたい、そのためにもいっぱい勉強して行かなければと思っています。
今までお世話になった方々、今後とも宜しくご指導くださいませ。
これから出会う方々、なんでも教えて下さいませ。
インターネットをされている多くの方々、あなた方が持っているいっぱいの知識を恵んで下さいませ。
そのかわり梅干の事なら私にお任せ下さい。 つづく
梅の名門 長生き屋商店 店主 榎本昌也
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